EYEVAN

 

EYEVAN × KYOTO interview 05

 
「変わってこれたから、生き残ってるんでしょうね」
京うちわ 阿以波 10代目 饗庭智之さん(創業1689年/京都市中京区)
うちわの起源をさかのぼると、長い。元々は暑くて扇ぐものではなかった。また、ひと昔前までは、うちわは買うものではなく、日本の贈答文化に支えられた贈るものだった。そして住環境が整いすぎたことによって、夏なのに涼しい、冬なのに暑い。ならば扇がず、見て涼んでもらおうと、遊び心で作られた「透かしうちわ」というものがある。つまり、何もうちわについて、私たちは知らなかった。「透かしうちわ」を作っている「京うちわ 阿以波」の10代目饗庭智之さんにうちわについてお話を伺いました。
「うちわ」の起源について
“魔を打ち払う”うちわ
うちわは元々、全然違うものだったんです。ひとつは「翳(かざし)」です。お姫様の顔を民衆にさらさないように、うちわを翳す。ご身体を動かす時に、皆さんにご身体が見えないように翳す。そういう神さんごとに使われて、「魔を打ちはらう翳→打つは→うちは」というところから「うちわ」というネーミングをされたようです。
 
資材も、目的すら、変えられる
もう一方で、南方系で南には大きな葉っぱが育ちますよね。それで雨を受けたり、虫を払ったり、風を起こしたりしていたみたいです。今、使われている用途ではこちらの意味の方が大きいですね。江戸に入ると、めでたい門出として社寺仏閣の門前で売られてました。ここからわかるように、うちわはこれまで、時代と共に、資材も目的も変わってきました。
 
「透かしうちわ」について
扇がず、見て涼む、うちわ
透かしうちわは、親父が作り始めたんですけどね。イメージは江戸時代の「水うちわ」。家の中だけでちょっと見て、涼んでみようかというようなことで、作って遊んでたんです。最初は京都の高島屋の美術部から売り出していただいて、商売人でもないからもう、拡販しようとも思ってなかったみたいで、そこだけにお預けしてましたが、何年かすると、「あそこに面白いものがあるよ」って評判になって。その頃、実は、一番量産のものに押されていた年代だったので、偶発的にできたもんであって、何か他に出すものがなかったんでしょうって私は思ってるんですけど。
 
職人でいたい、というのが一番
今は、季節を愛でるということが住環境が整いすぎたことによって失われてますよね。夏なのに涼しい。冬なのに暑い。「枯れへんつもりでこれ飾ってください」とお伝えしているんですけどね。“ギフト”“インテリア”まで来ていて、眼鏡のように“ファッション”へ。さすがに“食”までは突っ込みませんけど、まだまだ分野はあるとは思っています。でも、本来、私は職人であるのに、こんな風に、生活の中に文化を作ることを考えないといけなくなりました。なんでまだ、うちわって生き残ってるんやろうって思います。眼鏡は生活の中で必需。自分らにはないところやから羨ましいです。
 
うちわに春の花はなかった
例えば今、うちわで桜なんかよく作りますけど、親父が生きてた頃に聞いたんは「うちわに春の花はないよ」と。 ていうのがね、涼しいものが欲しいわけだから、“冬の雪笹”はうちわに描いていいんですよ。ところが、実は女性のお召し物と一緒で、春の花はパステル、温かいよっていう色なんですよね。だから春の花を夏に見せるというのは、暑苦しい。そのため、当時はうちわに春の花を描くのは否定をされてたみたいです。
 
継承について
「涼しいもん作ってんねんから肩に力入ったあかんで」
実は、息子をまだここには戻してないんですよ。継いでもらうかは関係なく、どうせ死ぬまでせんならんので、続けてるだけです。やっぱり、なければならないと思うからしんどいんです。そんなん思ってたらもう10回ぐらい死んでるんじゃない。これまで、量産という波に洗われて、ブラッシュアップはされてきてます。“盲千人目明き千人”なんて悪い言い方しますけど、そのうちの“目明き”が来ていると、思わざるを得ないですよね。でも、親父に昔ね、言われたなことがあって。「涼しいもん作ってんねんから、肩に力入ったあかんで」って。気がついたら躍起になって、逆に行ってるわって今でも思い出しますね。